増尾城について
基本的には台地先端を利用した直線連郭式の城館であったと思われる。
城の西側の台地基部を通っている県道も切り通しとなっており、堀切の名残のようにも見られるが、
この部分は北東側に明確な区画を持っていない。
やはり2郭構造の城と見てよいだろう。
2郭の南側に4m×6mほどの櫓台の張り出しがあり、これが横矢の折れとなって、2郭の堀に面している。
おそらくこれは大手に関する構造物と思われ、
この櫓台の南側の、現在駐車場となっているあたりから進入していくのが、本来の大手道であったと考えられる。
1郭、2郭ともに周囲を高さ2mほどの土塁が巡っている。1郭との間にも土塁が認められるが、堀は現存していない。
しかし、これは後世埋められてしまったものであろう。
1郭の南側は崩落が激しくかなりの部分が削られてしまっているように見える。
2郭も南側には土塁が見られないが、もともとは土塁が存在していた可能性が高い。
1郭の東側の先端部には2mほど低く、方4mほどの小空間がある。
さらにそこを降りていくと、さらにもう1つの小郭がある。
これらが搦め手口をなすものであると思われるが、この2つの段々になった小郭は、枡形のような機能を持っていたのではないかと考えられる。
1、2郭の北側の4mほど下には腰曲輪がある。
幅5mほどのものであるが、この外側には低いながらも土塁があり、もともとは横堀であったものだろう。
この腰曲輪の下は低地となっている。現在は公園の一部となっているが、もともとはここは沼沢地であったのだろう。
増尾城は、伝承では高城氏の配下の平川氏の城館であったという。
しかしこれは口碑に基づくものである。
この地域は古くは相馬氏の支配下であったかと思われるが、戦国期には北条配下の高城氏の支配地域となっていたと考えられている。
高城氏の配下に平川氏がいたことは「高城氏由来書」などからも確認することができ、高城配下の者の城館とするのが、可能性としては高いと言っていいのではないかと思われる。
天正19年(1590)正月25日に染谷二郎右衛門と平川若狭守に宛てた高城胤則の書状(『染谷文書』)に出てくる鷲谷の平川若狭守というのが、増尾城の城主でもあった平川若狭守であったかと推測される。
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