学校長  野村 春路 
 卒業生のみなさん、ご卒業おめでとう。保護者の皆様、本日はおめでとうございます。本校は、芝浦工業大学の歴史と伝統を踏まえ、1980年にここ柏市増尾の地に創立され、1990年に男女共学とし、1999年に中学校を併設して今日に至りました。これまで柏中学校は2,500名の卒業生を輩出し、みなさんは中学16期生として、今日その仲間入りをする日を迎えました。 今日みなさんの卒業にあたって、時間のことについて話をしたいと思います。今日で中学校の生活は終わりを告げます。入学以来3年ほどの月日が流れました。みなさんは、様々なことを体験し、学びました。それらの行いは、確実にみなさんを成長させたことでしょう。しかし、その有意義であったであろう3年間の月日は、永遠に失われました。流れ去ったのです。
 さて時間は流れ去るものという感じを、我々は通常持ちます。ところが、そうではないと考えた人がいます。日本の鎌倉時代に活躍した禅宗の僧、道元です。かれは『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』という著作を書きましたが、その中の第二十「有時(うじ)」という章で、以下のように時間について考えています。
 「しかあれば、松も時なり、竹も時なり。時は飛去するとのみ解會すべからず、飛去は時の能とのみは學すべからず。時もし飛去に一任せば、間隙ありぬべし。有時の道を經聞せざるは、すぎぬるとのみ學するによりてなり。要をとりていはば、盡界にあらゆる盡有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり。」(現代語訳)「このような考え方からすれば、松も時である。竹も時である。時が飛び去るものとばかり考えてはならない。飛び去ることだけが、時の働きであると学んではならない。時が飛び去るだけであるならば、時と我の間に隙ができるに違いない。今までに有時の道理を明らかにしたものがいないのは、みな、時が去るものとばかり考えているからである。この問題について要点をいうならば、一切世界のあらゆる事物は、つらなっている時である。それは有時であるから、我の有時である。」(現代語訳は高杉光一氏のホームページより)
 松や竹を、時を隔ててみていると、以前に比べて大きくなったなぁと感じることがあります。時間とは単に時計によって測るだけではなく、あらゆるモノ、特に生きているモノ=生物を観察していれば、そこに時間を感じることができます。時間はそのモノに記憶として積もっています。それ以上に、道元は「時間はそのまま存在であり、存在はみな時間である」と言っているのです。
 この考え方は哲学的で難しいと思いますが、それでも私は、時間には「流れる」時と「積る」時があると捉えています。今のみなさんは、3年間の柏中学校での時間が降り積もった存在そのものに思えます。今日、教職員、保護者のみなさんは、卒業生のみなさんを見て、時間を感じているはずです。なぜなら、みなさんは、それぞれ個別の時間の集積体だからです。みなさんの中学校生活は過ぎ去ってなどいません。あなた方そのものが、柏中学校3年間の時間の集積体なのです。かけがえのない集積体です。ですから、自分を大切にし、自分の中に積もっている時間を呼び起こして、これからさらに前へ進んでください。
 中学の卒業式にあたり、君たち自身が時間そのものであるということをお話しました。
 最後になりますが、PTA関係者の皆様、後援会、同窓会の皆様のほか、ご列席いただきましたご来賓の皆様には、ご多忙のところ卒業生のためにお越しくださり誠にありがとうございます。今後とも本校発展のために、お力添えくださいますようお願い申し上げます。

 卒業生のみなさん、新たな高校生活で良い時間があなたがたに降り積もりますように、……。