巻頭

 私とあなた
学校長  野村 春路 
 7、8年前のことだと思う。毎日通勤する道沿いに、周囲に手入れの行き届いた生垣があるお宅があった。その生垣のため、なかの建屋そのものは見えないのだが、生垣のはるか上に一群れの薄紫の花々が咲いているのに気がついた。それらは緑色の支柱に支えられた小木(その時は木のように見えた)、その先に咲いており、高さは4〜5メートルあると思われた。11月下旬のことなので、この初冬の時候に花が咲いている植物があることにまず驚いた。そしてその花の色が淡い紫で麗しく、高いところからこちらに語りかけているように感じたのである。その時から、この花がとても気になりだした。ネットで季節と花の色を入れて検索をしてみると、花の名前がわかった。「皇帝ダリヤ」。「皇帝」らしい高さ、風格のある名であった。この草花の名前がわかると、それまで気づかなかったのだが、通勤している道、サイクリングの経路、大きな公園など、この時期に少なからずこの背の高い花が咲いていることに気づかされた。

 その冬を越して春、そして5月になった。ホームセンターの園芸コーナーに行くと、「皇帝ダリヤ」の苗が売っているではないか。黒いビニールポットに高さ15cmほどの苗が植えられていた。それを買って自宅の小さな庭に植えた。しっかり支柱を組み上げて育てていなかったことと、9月の台風でやられたことにより、皇帝ダリヤは横に這うように成長してしまった。そのため、「皇帝」の威厳はなかったが、それでも11月には我が家にも薄紫の花が咲いた。
 それまでまったく意識していないモノが、私の中でとても近しい間柄に変わって行った体験である。

 同じような事件が、鳥についても起こった。毎年、夏に信州の高原を訪れるのだが、窓辺から近い大きな樅(もみ)の木に、毎朝小鳥が数羽遊びに来る。スズメよりやや小さく、頭が黒色、胸部が白い。可愛い声で鳴く。毎朝来ることがわかると、この小鳥のことが知りたくなった。調べてみると、「コガラ」であるということが明らかになった。さえずりを聞き取るのに、「聞きなし」の解説があった。「聞きなし」とは、にわとりの「コケコッコー」のように、主に鳥のさえずりを人間の言葉に、時には意味のある言語の言葉やフレーズに当てはめて憶えやすくしたものである。「コガラ」は「ツピー、ツピー」。この「聞きなし」を覚えると、「コガラ」のさえずりが見事に聞き取れるのである。鳥の姿が見えなくても、「あの木の上にコガラがいるな」とわかるのである。その夏以来、私と「コガラ」とは親しい間柄である。
 これらの出来事は、今まで意識していなかった外部の存在が、自分との距離を縮めて、その存在との関係が明確に形作られるようになり、その存在が「三人称」から「二人称」になったということである。「私とそれ」から「私とあなた」への変化である。
 20年ほど前、本校第4代校長の中平浩司先生の話を集会で聞いた時から、私はこの「自分とそれ」、「自分とあなた」との関係性について考えていた。中平先生はご専門が哲学であったこともあり、マルティン=ブーバーの『我と汝』をテーマとして、この問題を説明された。ブーバーによれば、世界は人間の二重の態度において二重なのであるという。その二重の態度とは、そもそも根源語が二つの対応語から始まっているためであり、その根源的な二つの対応語とは、「我−汝」と「我−それ」である。この二つの根源的対応語があることによって、人間は「我」そのものが二重であることを知る。だから、我を語るには汝を語ればよく、「それ」が語られれば我は語られることになる。そのような前提で、ブーバーは我と汝の対話を始めたのである。ここでは、「我」が存在するために他の存在が必要であるという視点に立っている。近代以来の「我」は、絶対的に独立した存在であったものが、自分以外の存在との「関係」の中で存在する「我」を考えたのである。
 先ほどの出来事を例題とすれば、私は今まで意識していなかった皇帝ダリヤやコガラという対象を、「汝=あなた」として意識化することにより、「私」自身の存在を確認できたということである。「私」は様々な対象との関係の中で存在しているとすれば、「三人称のそれ」から「二人称のあなた」への変位が多く行われ、「あなた」との関係が豊かになることが、本来捉えどころのない自分自身の存在を安定させることにつながると私は考えたい。
 周囲の人々のこと、離れたところにいる人々のこと、動物や植物のこと、空や海や大地のことなど、様々な対象を「二人称=あなた」として引き寄せて、生きていくことが重要である。なぜなら、現在のネット社会では、個人が匿名性の殻の中で安住できるため、場合によって「非人称」的世界が展開し、「我=私」の存在が、他者との関係によって問われることもなく、個人の不安定化をまねいていると思うからである。
 他者を尊重する社会、あるいは環境問題は、すべて自分以外の存在との関係を引き寄せて考えることから始まると思う。「私とそれ」から「私とあなた」へ、この変換を豊かに実践することが大切であろう。