Chikusei
・・竹青【9】・・

竹青に手をひかれて奥の部屋へ行くと、その部屋は暗く、卓上の銀燭
(ぎんしょく)は青烟(せいえん)を吐(は)き、垂幕(すいばく)の
金糸銀糸は鈍く光って、寝台には赤い小さな机が置かれ、その上に美酒
佳肴(かこう)がならべられて、数刻前から客を待ち顔である。
「まだ、夜が明けぬのか。」 魚容は間(ま)の抜けた質問を発した。
「あら、いやだわ。」 と竹青は少し顔をあからめて、
「暗いほうが、恥かしくなくていいと思って。」 と小声で言った。
「君子の道は闇然(あんぜん)たり、か。」 魚容は苦笑して、
つまらぬ洒落(しゃれ)を言い、
「しかし、隠(いん)に素(むか)いて怪を行う、という言葉も古書にある。
よろしく窓を開くべしだ。漢陽の春の景色を満喫しよう。」
魚容は、垂幕を排して部屋の窓を押しひらいた。
朝の黄金の光が颯(さ)っと射し込み、庭園の桃花は、
繚乱(りょうらん)たり、鶯(うぐいす)の百囀(ひゃくてん)が
耳朶(じだ)をくすぐり、かなたには漢水の小波(さざなみ)
が朝日を受けて躍っている。
「ああ、いい景色だ。くにの女房にも、いちど見せたいなあ。」 魚容は思わず
そう言ってしまって、愕然(がくぜん)とした。
乃公は未だあの醜い女房を愛しているのか、とわが胸に尋ねた。
そうして、急になぜだか、泣きたくなった。
「やっぱり、奥さんの事は、お忘れでないと見える。」 竹青は傍で、しみじみ言い、
幽(かす)かな溜息をもらした。
「いや、そんな事は無い。あれは乃公の学問を一向に敬重せず、
よごれ物を洗濯させたり、庭石を運ばせたりしやがって、その上あれは、
伯父の妾であったという評判だ。一つとして、いいところが無いのだ。」
「その、一つとしていいところの無いのが、あなたにとって尊くなつかしく思われ
ているのじゃないの? あなたの御心底は、きっと、そうなのよ。惻隠
(そくいん)の心は、どんな人にもあるというじゃありませんか。
奥さんを憎まず怨(うら)まず呪わず、
一生涯、労苦をわかち合って共に暮して行くのが、やっぱり、
あなたの本心の理想ではなかったのかしら。あなたは、すぐにお帰りなさい。」 竹青は、
一変して厳粛な顔つきになり、きっぱりと言い放つ。
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【竹青】
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