2,ユダヤ教・ユダヤ人の歴史まとめ

〜唯一神YHVHの影響に見るユダヤ〜

2−1 ユダヤ教

2−1−1 ユダヤ教の概要――神との関係についての宗教比較

 ユダヤ教の根本

 ユダヤ教とは、唯一神YHVH(読み方については、ヤハウェ、エホバなど諸説あり)を崇拝する宗教である。
 トーラ(モーセ五書)、ネヴィイム(預言者の記録)、ケトヴィム(諸書)が聖典で、それに記されている事を、ユダヤ教は遵守することになっている(これらの聖典をキリスト教では「旧約聖書」と呼ぶ)。これらにタルムードと呼ばれる、あらゆる分野を網羅する膨大な教典を加えたものが、ユダヤ教の源泉であり全てである(ハラハー(戒律)と呼ぶ)。またそれらにミンハグ(慣習)が加わって、ユダヤ教徒の生活が形成される。

 キリスト教とユダヤ教のYHVH観

 キリスト教的感覚で見るとYHVHは、愛を説いたイエスを遣わした神、ということで、悪に対して厳しいものである。キリスト教徒にとってYHVHは、イエスが原罪を背負って十字架にかけられたので、そんなに恐ろしい存在では無いと思われる。
 しかしユダヤ教は旧約聖書のみでYHVHの性格が決定される。旧約聖書でのYHVHは、相当恐ろしく厳格な神である。キリスト教の場合はイエスが、他にカトリックや東方正教の場合は、聖母マリアや様々の聖人がYHVHとの間の緩衝材としてYHVHのイメージを和らげているのだが、ユダヤ教の場合はYHVHと人間の間には何もいない。

2−1−2 旧約聖書の教え――選民思想の解釈

 創世記におけるYHVHと人間の関係

 旧約聖書の最初の部分である創世記において、YHVHはこの世と生命を造った存在で、アダムとイブには崇拝を期待したり要求したりしていない。

 割礼の意味

 アブラハム(BC17世紀頃)に至って、YHVHはしばしば彼と接触するようになるが、それでも崇拝を要求することはなかったのである。しかしアブラハムには、ユダヤ教の特徴の1つである割礼、即ち男性器の包皮の一部の切除が要求され、アブラハム以下、彼の率いるヘブライ人(「ユダヤ」という名称は後につけられたものであり、当時はヘブライ人と呼ばれていた)の男性は皆この割礼を行った。割礼の意味については、衛生面で良いという説が一般的だが、他民族との性においての区別、即ちヘブライ人と他の民族とは違うのだということを示すために行われたのだと考えられる。ここに選民思想と呼ばれるものの萌芽が見て取れる。
 後にヘブライ人は飢饉のため、住んでいたカナーンの地(現イスラエル)を離れてエジプトに移住した。やがてエジプト人は、急増するヘブライ人に反感を持つようになり、彼らを以後400年間奴隷扱いしたと言われている。 

 YHVHのヘブライ神化

BC13世紀にヘブライ人の一老人モーセは、YHVHの指令と助けにより、ヘブライ人を率いてエジプトを離れた。この際、YHVHはエジプト人の家族の長男という長男を全て殺したということになっているが、これは、YHVHがヘブライ人の守護神になったことを初めて明確に示した事件である。この場合では、エジプト人がヘブライ人を虐げたからエジプト人が悪い、ということにもなるが、ヘブライ人が戻ったカナーンの地に住んでいた他民族を、特に何も悪い事をしていないのに、ヘブライ人が住むべき場所に住んでいたからという理由だけで殺され、追放されたのであるから、結局YHVHはヘブライ人の神となったということであろう。

 選民思想

 ヘブライ人は確かに選民思想であったということができる。他の民族でも、割礼をしてモーセの教えを守れば、ヘブライ人になれるのではないかと思うが、それはこの時代には見られないことであろう。また、ある民族を滅ぼすために、その民族に、YHVH信仰を誘い、男子に割礼を受けさせ、痛みに悶えている間に、男子全員を虐殺してその民族を滅ぼしてしまった、という記述もある。
 この選民思想は、バビロン捕囚の後に和らげられるようである。イザヤ書二・二−三から抜粋すると、
 「終わりの日に主の家の山は、山々の中のもっとも高いものとして立てられ、どの丘陵より高くそびえる。すべての民族はここに流れ込み、多くの民がやってきて言う。『さあ、主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示され、わたしたちがその道を歩むために。』律法はシオンから、そして主の言葉はエルサレムから出る。」
 旧約聖書においてここで初めて他民族もYHVHの心眼に叶う事とされる。ユダヤ人は祭司としての役割を果たすが、他民族に対して優れているなどということはどこにも書かれていない。
 だが、新約聖書にも見られるように、ユダヤ教の司祭達は異民族を蔑視していた。また、原始のキリスト教会では、ユダヤ人でなければキリスト教に入信できない、と思うような人々もいた。
 ユダヤ教の選民思想は、@バビロン捕囚、A離散(ディアスポラ)という危機の時代に緩められたのだと考えられる。ユダヤ人が小規模の共同体で生活せざるをえなくなったので、他民族との結婚を余儀なくされ、そこで、ユダヤ教を信奉する人がユダヤ人である、という現在のイスラエル政府の決定につながったのではなかろうか。
 超正統派や正統派がどう思っているのかはわからないが、キリスト教にもイスラム教にも原理主義はあるので、ユダヤ教を選民思想としてくくってしまうのはどうかと思われる。

2−2 ユダヤ人

※ヘブライ人とユダヤ人の違い
 ヘブライ人とは、アブラハムからイスラエル王国の分裂に至るまでの民族を指す。ヘブライ人が北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂した後、北のヘブライ人はアッシリアに滅ぼされて行方不明となり、南のヘブライ人が後まで生き残った。この南のユダ王国の子孫をユダヤ人と言う。つまり彼らはヘブライ人でもある。

2−2−1 ユダヤ人とは

 現在の規定では、ユダヤ人とは、ユダヤ人を母親に持つ人か、或いはユダヤ教を信奉する人とされている。

2−2−2 ユダヤ略史

 アブラハム〜モーセ――エジプトでの民族的苦難

 現在のイスラエル地域にいたヘブライ人は、飢饉のためアブラハムの子ヤコブに率いられてエジプトに移住した。しかしその後エジプト新王国がヘブライ人を奴隷としたため、苦難の時代が始まった。400年の後、モーセはヘブライ人を率いてエジプトを脱出した。
 モーセはシナイ山でYHVHから啓示を受けて、それを記すわけだが(後のトーラ)、それの要約がモーセの十戒である。それらは全て、「〜してはならない」という禁止事項であり、それを守らねばならない理由や、或いはYHVHの愛などということは記されていない。

 イスラエル王国――黄金時代

 BC1020年頃、ヘブライ人は現イスラエル地域に王国を建国、ダヴィデ、ソロモン両王の代に最盛期を迎えた(「海の民」の侵入によりエジプトなどの周辺強国が弱体化していたため)。ソロモン王は巨大な神殿を建設、威勢を誇った。しかしソロモン王の死後、BC933年に王国は多数派のイスラエル王国(北部)と少数派でダヴィデの直系であるユダ王国(南部)に分裂した。

 バビロン捕囚――民族の危機とユダヤ教の形成

 北のイスラエル王国はBC722年にアッシリアに滅ぼされ、人々は連れ去られて以後行方不明となり、南のユダ王国は新バビロニア王国に滅ぼされソロモン神殿を破壊されて、BC586年、ヘブライ12部族の中で唯一生き残ったユダヤ人(以降はヘブライ人ではなくユダヤ人と呼ぶ事にする)はバビロンに連行された(バビロン捕囚)。
 バビロン捕囚中に、ユダヤ人はゾロアスター教の善悪二元論、天国・地獄などの思想の影響を受けたといわれてる。トーラ及び、ゾロアスター教の影響によって出来たのが旧約聖書である。

 自立と自治――ユダヤ教定着

 BC538年、オリエント統一途上のペルシア帝国皇帝キュロス2世によりユダヤ人は解放され、イスラエルの地に戻ってソロモン神殿を再建したが、その後ペルシア(自治)、アレクサンドロス王国、プトレマイオス朝エジプトと、次々に支配された。
 しかしユダヤ人は反乱を起こし、BC142年に独立、ハスモン朝を打ち立てた。その後BC63年、ローマ帝国の支配下に入り、その中の自治国として、ユダヤ人はローマに反感を持ちながらも独自の宗教と文化を維持し続けた。

 離散――流浪の1800年

 イエス・キリストの受難後、イエスの予言したように、対ローマ蜂起によりエルサレムとソロモン宮殿は徹底的に破壊され、60万人のユダヤ人が死亡した。
 AD132年の「バルコフバの反乱」の後には、遂にローマはユダヤ人をイスラエルから追放(ガルート)し、以後約1800年の長きにわたってユダヤ人は各地に離散(ディアスポラ)することになった。
 イスラエルのユダヤ人社会は以後も小規模ながら存続し、エルサレム版タルムードや、宗教法典などをこの地で生み出している。
 ユダヤ人は各地に分散したが、ユダヤ社会及びユダヤ教学の中心は、バビロニア(AD135〜1200年代)、スペイン(8世紀〜1391年)、ハンガリー(13世紀〜近代)、リトアニア・ポーランド(14世紀〜近代)、アメリカ(1881年〜現在)と移りながらユダヤ人としてのアイデンテティを守りつづけた。
 8世紀〜9世紀頃に南ロシア付近にあったハザール帝国がユダヤ教に改宗し、その後ハザールが滅びると、ユダヤ教徒達はロシア及び東欧に流れ込んだという説がある。

 イスラエル建国

 ナチス政権によるユダヤ人迫害の後、1948年にユダヤ人国家イスラエルが建国されると、ヨーロッパのユダヤ人の大半はイスラエルに永住した。他にも世界中からユダヤ人が帰還したが、アメリカのユダヤ人は生活が安定していたので多くは移住しなかった。

2−2−3ユダヤ人社会の分類

 世界中に離散したユダヤ人はその地域により、スファルディ(スペイン)、アシュケナジ(中欧・東欧)、ミズラヒ(中東・アジア)の三つに大別される。スファルディはミズラヒに含まれる場合もある。
 1960年の時点で、世界のユダヤ人口は1300万人、アシュケナジ1100万人、スファルディ50万人、ミズラヒ150万人である。イスラエルでは、アシュケナジと、スファルディ・ミズラヒが半々の人口である。
 この三系統の他にも、各地域に独特の文化を持つ様々なユダヤ人社会がある(あった)が、これらはごく少数である。
 ユダヤ人社会では同胞探しが盛んで、ミャンマーやウガンダなどの少数民族がユダヤ人の一派と目されると、ユダヤ教への改宗を勧める。


補足:東欧のユダヤ人

1アシュケナジは本当にドイツ出身か

 定説として、第2次大戦前までポーランドやウクライナ、リトアニア等に多く見られたユダヤ人は、13〜14世紀頃にスペインを発し、フランスを通ってドイツから渡ってきたと思われていた(ドイツ系ユダヤ人をアシュケナジという)。
 アシュケナジとはヘブライ語で「ドイツ」という意味である。更に、東欧のユダヤ人が使用していたイディッシュ語は、ドイツ語からの借用が多く、このことも「出ドイツ仮説」ら支える結果となっていた。
 イディッシュ語はヘブライ語、中世ドイツ語、スラブ語その他の混成語で、ヘブライ語を使って書かれる。
 しかし、アシュケナジの発祥とされる、現ドイツ・フランス国境にあたるライン川地域の西部ドイツ語、即ちモーゼル・フランコニア語起源の語彙は、1つもイディッシュ語に使用されていない。更に、フランクフルト周辺の言語もイディッシュ語には入れられていない。以上の事からイディッシュ語の発祥は西ドイツでないことがわかる。
 イディッシュ語に多大な影響を与えたのは東中部ドイツ方言、即ち現在のオーストリア・アルプス地方及びバイエルン地方で使用された言語である。つまりイディッシュ語に入ったドイツ語は、東欧のスラブ・ベルト地帯に接する東ドイツ圏のものだったことがわかる。
 その東ドイツ方言も、アシュケナジがポーランドに辿りついた後に、イディッシュ語に組み込まれた可能性が高い。つまり、アシュケナジがもしドイツから来たとすれば、全く言語的影響を受けないでポーランドまで辿りついたということである。
 当時のポーランド人は、高文化を築く神聖ローマ帝国支配下のドイツ文化を好んでおり、尊敬していた。後進ポーランドはドイツとの経済関係に頼っていたので、貿易・商業を行うにはドイツ語が必須であった。
 しかしポーランド人は金融業を行うのをあまり好まなかったようで、アシュケナジが金融界に進出することになる。そこでアシュケナジは、近隣のドイツ語、つまり東ドイツ方言を学ぶ必要があったということである。だからイディッシュ語に東ドイツ方言が取り入れられているのであろう。
 また、ユダヤ人の記録にも、勿論フランスやドイツの年代記にもユダヤ人の東方移動に関する事は全く書かれていない。
 このように、中世ドイツにユダヤ人が大量にいたということは根拠の無いことであり、少数いたユダヤ人達ですら、ポーランドに移住したという記録が無い。よってアシュケナジは出ドイツという定説は間違っているように思われる。
 するとアシュケナジという言葉事体が語弊があるのだが、以後は東欧のユダヤ人、という意味でアシュケナジと使う。

2ハザール・ハン国出身説

 それでは、アシュケナジはどこから来たのだろうか?
 そこで浮上するのが、「ハザール(カザール)・ハン国(可汗(カガン)国)」である。
 ハザール人、とはおそらくトルコ系、或いは中央アジアで「西突厥」と呼ばれた人々の一部であったと考えられる。ハザールの位置もよく知られていないが、大体カスピ海(「ハザールの海」とも呼ばれていた)から、黒海北岸・南ロシアの草原地帯までの広大な地域がハザールの支配下にあったといわれている。
 ハザール族は遊牧民であったが、完全に遊牧経済に依存していたのはなく、半定住生活を送っていた。
 大国ビザンツ帝国もハザールには一目置き、東方の強敵イスラム勢力と対抗する上で重要な同盟者と見なしていた。ビザンツ皇帝ユスティニアノス2世リノメトス(在位685〜695,705〜711)の2番目の妻はハザールの可汗の娘テオドラであり、732年、ハザールの可汗は娘エイレネをビザンツ皇子(後のコンスタンティノス5世コプロニュムス)に嫁がせ、彼女の息子レオン4世(在位775〜780)は後に「ハザールのレオン」というあだ名で知られるようになる。
 ハザールは宗教的統治者たる可汗と、世俗的統治者たる王の二重王権、即ちイスラム教におけるカリフとスルタンのような政治体制であったが、8世紀〜9世紀頃に可汗を含めて支配階級がユダヤ教に改宗した。何故ユダヤ教を選択したのかという事はよくわかっていないが、キリスト教のビザンツ帝国とイスラム世界に挟まれているということで、両世界に対しての独自性を保つためだという説もある。ハザール公式の神話では、可汗の前でユダヤ教・キリスト教・イスラム教等の代表が論戦を行い、その結果ユダヤ教が選ばれたとされている。
 しかしこのユダヤ教改宗により、キリスト教国たるビザンツ帝国の仲が悪くなった上に、キリスト教或いはイスラム教を信仰していた国民達と支配者の間に亀裂が生じた。
 9世紀頃に、ハザールは衰退を始める。支配下にあった諸民族が独立の傾向を示し、更に東方からの新たなる遊牧民がハザールを脅かすようになった(ビザンツがけしかけたとも)。10世紀になると、ルーシのスヴャトラフ率いる軍によってとどめを刺された。
 ユダヤ教ハザール族は国家滅亡後、ロシアを通ってポーランドに入ったというのが、アシュケナジの出ドイツ説に対する説である。
 疑問が残るのは、ハザールの支配者だけがユダヤ教に改宗しても、多くの国民がユダヤ教に改宗していないと、ポーランドに来た多数のユダヤ教徒=ハザール人という証明が出来なくなる。
 しかし、「上は王から下は奴隷に至るまで」ユダヤ教に改宗したという説もある。